前向きの憂鬱

徒然なるままに

男とは元来女の尻に敷かれる生き物

男はつらいよ。まさしくその通りであり、男は女の尻に敷かれる。これはお金を管理されるとか、恐妻で怒鳴られるとかそういう意味ではない。

女の最大の武器はクッションのような受け皿である。男は常に突き刺さろうとするが女は全て受け止めて当たり前のように受け流してしまう。しかも男はバカだから女を従えることが出来ていると勘違いする。女は突き刺さってもわからないように跳ね返してしまう。

誠に恐ろしいのは女は表面化しない。常に影でボロボロに叩きまくる。もっと怖いのは出来る女は陰口は叩かないが、底知れぬ何かがあるためそもそも逆らうことを許されない感覚に陥ることがある。

俺は一時女を押さえつけようと必死になっていた。でもそれは簡単にはねのけられ、後に袋たたきにあって泣かされた。これ以来女を軽率に扱わないように最新の注意を払うようにした。

それでも仕事をしている相手には私情は挟まないことにしている。顧客と店員の立場ならなおさらでここで私情を挟むようならそれは容赦しない。俺は目的を達成したらとっとと失せたい。余計なことはじゃまでしかないし、わからないなら後からききにいってやるという心構えだ。

俺は何事にも真剣に取り組まないと常に周りの目線がある。それでも最近は自然体でいられるようになった。さっきもドアをガタンと閉める下の階のくそガキがいたが無視できるようになった。ああいうくそガキが普通なのだろうが男として終わっているような気がする。

傲慢。プライド。意味のない自尊心。本能的に仕方ないとは言わせない。前を向けといいたい。どうせ尻に敷かれるなら見守ってくれてる女性の視線を感じながらただ突っ走りたい。

 

スーツケースを買いにいった話

オレは遠出のために必要な鞄探しの旅に出た。それは短くて無駄な旅だった。

新しい服は今まで来たことがない色。でも我ながらいいと思う。 

出発いつも通りの変わらない日常。町も普通でみんなも日常を楽しんでいる。

赤ちゃんが泣いていた。父親が「泣くな男だろ」といい聞かせると泣き止んだ。なんとも微笑ましい光景。これもまた日常。

道端でタバコを吸う老人がいた。正直気分がいいものでもないがこれも日常。

店に着く。女の人が大きな声で勧誘していた。男性女性みんながんばって仕事をして楽しそうに話して髪を整え服を整えかっこよくなる美しくなるかわいくなるようにつとめるこれもまた日常。

しかし道を歩いて悪いことをすると悪いことが帰ってくるこれは非日常。非日常を経験するとじぶんのきもちに嘘をついた気分になる。やはり嘘はつけない。

 

キャリーケースは便利だがよくよく思うとゴロゴロうるさい足まわり+持ち替える自由性に欠けているの二重苦。効率は非常に悪い。

俺は元来持ち物は少なくしたい人間だ。キャリーケースはどうしても荷物が多くなってしまうときに必要なものであり、おれは少ない荷物を持ち帰るためにキャリーケースを買いにいったという何ともばかばかしい話だ。

親父に貰ったカバンがある。これと服をユニクロの袋に詰めて帰ろうと思う。もっとも効率的でコンパクトだ。

今回の買い物は普段の散歩の延長線上というものだ。俺は普段から買い物は散歩しながら探索する。そうすることで必要が必要じゃないかがわかるからだ。もちろん目的がはっきりしているなら一直線だが、自分にとって必要か必要じゃないか定かではないときはこのようにしてのらりくらり旅してもいいと思っている。

世の中には二種類の人間がいる。一つは計画型の人間。あらかじめやることを決めて実行するのが特異な人。もう一人は探索型の人間。これはとりあえずやってみてその場その場で判断していくタイプ。一見前者の方が安心感があるが、長期的にみると後者の方が成功していることが多い。後者は長期計画など全く考えていないが気づいたらいいところまで行っていたなどということが多い。

ホリエモンもどこかの大学の演説で「長期計画など関係ない」と言っていた。これは最近になって直感に身を任せるようなって初めてわかった。その都度その都度集中することこそが生きる道を作るのだと思われる。

物について

物は俺にとって大事。特に誰からもらったかということが一番大事だ。

父親から本をもらった。これを読むにしろ読まないにしろ父親を思い出してほっとする。

母親から野菜を送ってもらった。食べて形がなくなるにせよなくならないにせよあの時送ってもらったという記憶が残る。

兄からもらった毘沙門天のレプリカ。これもこれで兄が大事にしていたものだから念がこもっている。だから今でも俺の守り神の重要なポディションを占めている。

誰からもらったかともう一つ。どこから持ってきたかということも重要。

悪いところから持ってくれば悪い影響を受け、いい場所ではいい場所の影響を受ける。

そうやって循環する意識の違いは本当にいいものしか見えなくなってそのためには何でも捨てることが出来る.

光が差した。いつも正しい選択をすると光が差す。俺の選択は間違っていなかった。だから俺は楽しく生きることを選択し、有象無象の社会からいいものを盗み出して還元する。

 

還元したものは社会に光を照らす。反発するものもいるが、結局後になって反動が帰ってきてつらそうだ。だからこその自分の内側にいる神の意識なのだろう。

アインシュタインも神の存在を確信していた。要するにこういうことなのだろう。その神をどう宿すのかは今のあなたの選択にかかっている。さぁどうする?

人間に内在する「神」という存在

日本人は無神論者が多い。これは日本自体が一神教ではないことに起因している。仏という存在がいる。これは本来人の魂を宿した化身というべきだろうか。

俺が思うに人間はよく神と人間を分離したがる。

神のみぞ知る

これは人間が自分に内在する「神」という存在を無意識のうちに活動させているのだと思う。何が言いたいのかというと神と人間は分離しない。つまり一心同体だということだ。

人間の精神世界において、究極の神を宿した存在は「自立」と呼ばれる。それまでに様々な魂の試練を乗り越え、本当の自分を発見することで神の下地を作ることができる。下地を作るとそこからはパーツを集めて自分だけの「神」を作ることができるのだろう。

この神を作る作業は自分だけではできない。人との出会い、そして霊格の高い場所に行くことで初めてパーツを集められる。俺は最近パーツ集めにはまっているがそれは必ずしも目に見えるものではない。

『気』とでもいうべきだろうか。正確には自分の性格に合わせた場所に行くこと。これだけで何をしなくても『気』を集めることができる。気を集めると内面が変化する。なぜなら周りの反応が変わっていくからだ。周りにもいい影響を与えて変化させる。それに付随して自分も成長する。

霊性・実在知能はあらゆる人間の知能の中心であり、その周りの知能と紐づけられている。俺はこの霊性を武器にして自分の計り知れない長所を伸ばしていこうと思う。

 

 

 

 

無神論者というのも神をただ信じないという意味合いでとらえていたが全く違う意味合いもあったことに気づかされた。神は外側にいるか内側にいるかただそれだけの違いで能力に大きな差が生まれようとは・・・・

外側に神を求める人は内側の本当の神から目を背け、内在神の怒りにふれ、自滅していく。彼らは内省を考えることないほどすさんでいるため、わからないにかもしれない。

 

 

昨日とある店で接客を受けたが、内在が違うと波長が乱れる。しかしそれは自分の確固たる磁場を築き上げていないため、ちょっとしたことで波長が乱れる。物音をわざと立てたり、過去にやっていた自分の行動をただ真似てみたりする。人それそれ違うというのは内在を見つめなおせということだ。そうすることでようやく魂の成長が始まる。

俺の魂も次のステップに立った。まったく違う景色が見える。そしてそれは彼女も同じだ。自分が返る場所を探す旅。同じく繊細で他人思いで強い人間。そのためにこれからも現実を生き続ける。

白鷺

今日の白鷺。昨日見た時よりもきれいになっていた。周りには誰もいない。一人しかいない。

凛とした姿。しかし、まだきれいになれる。そう言い聞かせてみた。

きれいになりたいという思いで羽を整える。整える羽が時々散らばりながら運命を助長していくかのよう。散歩途中アオサギが近くにいたがそんなものはどうでもいい。河原にいる彼女にしか興味がないし、それ以外は二番手だ。

片羽がきれいになった。彼女は満足しているかのようだった。まだ上があるのにもかかわらず。でも今日の精いっぱいと生きている彼女を応援したい。まだ始まったばかりだ。おれは鷹、彼女は白鷺。二対のつがいはこれからもお互いに前に進む。

時計

時間がかかるという。時間がないという。時間が欲しいという。時間を返せという。


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時計。それは俺にとって大事なもの。なくなればそれこそ死活問題。生活のバイブル命綱。

しかし時計は人の感性を奪う。時間に支配され感覚で今何時かわかる本来の人間の長所を消してしまうからだ。

人間とは時を操る錯覚に陥る。正確には時間の流れが早く感じるときと遅く感じるときがあるということだ。時間が早くなるとじぶんもやりがいを感じ、時間が遅いとむなしく感じていた。

速く物事をこなすことが楽しいとなるとこれはどういう感覚になるのか?俺の経験上速くする事を楽しむと時間が過ぎるのは早く感じるが実際そんなに時間が過ぎていないから時間が余るということだ。

効率よくすると出来ることが増えてどんどん物事をこなせる自信がつく。そしてこのやり方は現代社会の時代の加速にてきおうするための底なしのスキルだ。やはり時代に逆行するのは人間として苦しく罪深い。

おそらく京都は時代と逆行したがっていると思っていたがそれは違って京都というながれが特殊な町では俺自身が成長できないし、昔の日本文化と現代の流れの融合を目指す俺にとってこの流れは邪魔でしかない。

俺は加速してもっと成長したい。時の流れを変えずに加速したい。時間を余らせたい。余った時間の中でもまた加速したい。

新幹線。短い時間で長距離を動けるスマートさ。とりあえず新幹線を目指してみる。

物の循環について

物は循環する。食べ物は最終的にふんとして水土に帰り、ゴミはバクテリアが分解する。金は企業から個人にわたり、個人は金を使って店にわたり、利益としてまた帰郷に戻る。もっと言えば外国との貿易を通過の変動を通じてばらばらになったお金がまた戻ってくる。

物の循環は元来の地球の摂理だが、最近はその摂理に反するものを人間が作りすぎてほかの生物に循環を止める命令している。

プラスチックは分解されないままたまる。不純物がたまると最終的に人間に害悪物質として潜在的公害を生み出す。

金も最近の閉塞空間での箱庭労働によるストレス解消のための脳内刺激麻薬を使った大量生産菓子やオリジナルの砂糖の塊の飲み物を量産し続ける店での消費などで悪循環している。日常生活に潜む魔物はちまちまと心も体もむしばんでいく。

人間社会を作るのは人間である。しかし、それを作り替えるのは自分の意思でこれをやると突き進んだ者たちである。

努力という言葉がある。俺が思うに努力といういかにもつらいことを汗水たらして実現するような表現をしている時点でそもそもの考えが間違えていると思われる。

努力しているように見える人間は、目の前のことにただ没頭しているだけだ。ただこれがやりたい、そういう思いで日々物事を日常のごとくこなしている。

「あいつはレベルが違う。努力では埋まらない才能。」

思うにこれは根本的な考え方の問題である。目の前にやらなければならいことに集中していればおのずと自分が目指す道が見えてくる。でもほとんどの人は先を見すぎて今を集中していない。今を集中していればおのずと明日が見えてくる。明日が見えれば光となる。光をたどればそれはやがて包み込む。

長期的なことには計画など無意味だ。そんなことをしても頓挫するだけ。目の前のやらなければならないめんどくさいことだけ計画してあとは考えない。好きなことや大雑把な目標だけ考えてやる。